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踏みとどまった思いの行き先
2026/06/17  [PR]
 

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 現代  cm:0

 目の前にある坂道を下ってくるのは、40代半ばと思われる、黒いダウンコートを着た女性。彼女の足元ではねるように歩くのはチョコレート色をしたトイプードル。
 わたしはぼんやりとトイプードルを見ながら、隣を歩く彼がいつ、犬に気づくのか考えた。どんどんと距離が近づいていく。彼は何も話さない。寒いのだ。わたしの右手と彼の左手はしっかりと繋がれたまた、彼のコートのポケットにおさまっている。手袋を買おうとしたら、彼に止められた。それ買ったら、なっちゃんと手つなげないじゃん。唇を尖らせる彼が本当に本当にかわいくて、ほんのちょびっとだけ「バカじゃないの?」と思ったが、結局わたしはこの冬、手袋を買っていない。バカなのはわたしも一緒だ。
 トイプードルとすれ違う瞬間、彼はようやく口を開いた。「あ、犬」短く、それだけつぶやくと、首を回してトイプードルを目で追いかける。ポケットの中で、彼の親指がわたしの手の甲を撫でる。
「なっちゃんの手がモフモフしてたら、最高だよね」
 そう笑ったのは、先週、テレビでやっている犬猫特集を見ていたときだった。わたしは自分の手を見て、腕を見て、「モフモフしてないからねぇ」と答えた。「でも、わたしがモフモフしてたら、会うたびにアレルギーだよ」そう付け足すと、彼は驚いた顔をして、そのあと肩を大げさに落とした。
 盲点だったようだ。
 彼は動物の毛アレルギーである。くしゃみが止まらないようで、そのことを知らずにわたしがデートで猫カフェに行きたい、と主張したとき、彼は笑顔で了承した。デート当日、彼はふだんかけないメガネとマスクを装備して来た。話を聞くとそういうことだったので、わたしは行かない提案もしたのだが、彼がどうしても行きたいと言い張り、結果、鼻水と涙にまみれたカフェデートとなった。アレルギーなのに、好きなのだ。スギ花粉すらアレルギーのないわたしは、彼のその感覚がわからないが、つらいんだろうなぁ、と思っている。
 ポケットの中でわたしの手の甲を撫でていた彼の親指が動きを止めた。わたしは彼を見上げて、「どうしたの?」と尋ねる。
「やっぱさぁ、なっちゃんがモフモフしてたらいいなぁって」
「せめてトイプードルみたいなぐりぐりパーマでもかけましょうか?」
 冗談のつもりでそう言った途端、彼の表情がみるみるうちに明るくなる。
 ええー?ほんとにー?なんて、滅多に見れないデレ顔だ。わたしは笑った顔のまま固まっている。このあと言われるであろう一言が予想できる。待って待って、ダメダメ、こんなデレデレとした、ゆるみきった顔でそれを言われたらわたしの返事は一つしかない。
「なっちゃん、明日の夜空いてるって言ってたよね。お店、予約しておくね」
「わあ、ありがとう」
 わたしの棒読みお礼なんて気にせず、彼は上機嫌で鼻歌をうたいだした。百年先も愛を誓ってくれるみたいだけど、その愛は、わたしが求めてる愛なのかなぁ。ポケットの中で繋がっている彼の手を強く握る。
 そんな疑問、今まで何回も考えてきた。その度に、気にしない風を装っている。わたしは、彼の中でどういう存在なんだろう。


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 わー犬だー、と暑さで少し頭がやられたオレは、ふらふらと散歩中の犬へ近寄った。飼い主さんはにこにこと笑いながら「チャッピー、ごあいさつはー?」なんてなごやかだ。ああ、この暑さにもふもふするだなんて、とてつもなく拷問に思えるはずなのに、どうしてオレの脳みそは犬へ突進しろと命令するのだろうか。そしてそれに素直に従うバカな足。
 うふふふ、と今にも笑い出しそうなオレに対する、かわいいわんわん(ちなみにこのチャッピーは柴犬となにかが混じった、垂れ耳黄土色の雑種だ)の反応は冷たかった。牙をむき出し、殺意もこもっていそうな威嚇。止まれないオレの手は、大きく口を開いたチャッピーにがぶりと噛みつかれた。

「チャッピー!?」

 オレ以上に驚いてる飼い主さんの声にびっくりして思わず後ずさった。忘れていたけど、ここ、土手になってた。芝に覆われた斜面に足を落としたオレはそのまま転がり落ちる。飼い主さんとチャッピーの顔が並んで見えて、あ、ペットは飼い主に似るって本当だな、と思った。優雅に手を振る飼い主のいう「挨拶」って、もしかしたら「私に変な虫がつかないよう、あーたが成敗いたいしなさい」っていうことなのかな。ごろごろごろ。
 斜面の途中で体が止まる。おかしいと思ったのはそれだけではなく、右手に当たる人肌だ。あたたかい。生きてるんだね、とかそういうんじゃない。日差しがぽかぽかを通り過ぎてる(だって梅雨明け宣言されたし)今日、ここにどれぐらいいるんですか? ってぐらい熱い。てかだんだん2人の接着面が汗ばんできた。
 これがきれいなお姉さんだったら新しい出会いを作ってくれたチャッピーとその飼い主に感謝するんだけどなぁ。現実はなかなかうまくいかないよね、と手の主を見る。
 眉間にしわを寄せながらも眠るその人は、髪の毛が長かったら勘違いしたかも、と思うような寝顔を世間様にご披露していた。この辺りで働く人なんだろうか。いくら慣れ親しんだ場所とはいえ、無防備すぎない? 東京の人は冷たいっていうけど、そんなことないんだぞ!を証明しようとしてるのか、顔の近くに携帯が置かれている。今、あなたがあたたかいことを証明できてるのは太陽光だけです。ほんと、暑い。

「ん……」

 より一層眉間にしわが寄り、オレの手が強く握られてからややあって、ゆっくりと彼の目が開けられた。思ったより大きくない目だな、と失礼なことを思ってみる。
 沈黙と見つめ合い。
 なにも知らない人から見たオレらってかなり怪しいよね。どんな関係かしらって勘ぐっちゃうよね。わかってんだ、わかってんだけどさ、この人の手が、指が、同じ男なのかって疑いたくなるぐらいキレイだからさ、離すのがもったいないっていうか、まぁ、しっかり握られてるからオレだけの意志では離せないんだ、これが現実。
 合わせていた視線にズレが生じる。彼が2人の肌と肌の触れあう箇所へ目を動かした。

「そういうのが好きな人?」

 怪訝そうな顔でいわれたのでとりあえず首を左右に振っておいた。そういうのってどういうの? という質問は、これからしようと思う。




「つっつー、こっちこっち」

 へらへらと笑いながら立ち上がり、ふらふらと手を振るトラ先輩を見つけ、オレは呼ばれるがまま足を動かした。テーブル間の通路は狭く、店内は客たちの騒がしい話し声であふれ返っていて、頭が痛くなる予感がした。いわゆる頭痛フラグってやつね。

「やーすまんね、急に呼び出して」
「別にいいんすけ」
「どうせつっつーヒマだろうと思ってさぁ」
「事実をはっきりといわれるとこんなにも腹ただしいんすね」
「ま、座れば?」

 近くを通った店員に、先輩はアイスコーヒーを追加注文する。うーん、おごりかな。

「でさぁ、つっつーボインが好きっていってたじゃん? この前の飲み会で」
「え? あー、……えぇー?」
「オレは忘れてねぇかんなー。つっつーがボイン好きっていったのを、しっかり覚えてる!」
「いやまー飲みの席ですし」

 ははは、なんて乾いた笑いは先輩のゆるい笑顔によって流された。肩をすくめ首を横に振る。一見腹立たしく思う行動も、トラ先輩がやるとかわいく思える不思議。
 昔々、思わず本音がポロリしたときは、ケツをつかまれ「掘るぞ」と低い声でおどされたなぁ。あー若かったオレ。今とさして変わってないオレ。てことは今のオレも若いのか。

「男なら自分の言葉に責任持てよ」
「先輩にだけはいわれたくねー」

 アイスコーヒーを置いてく店員に軽く会釈をし、ガムシロもミルクも入れずに一口飲んだ。うまい。味の違いはよくわかんないけど、うまい。気がする。いや、うまい。
 ニヤニヤと笑う先輩が気持ち悪い。なんすか、と聞けば、いやあ、と返された。

「つっつーは色男だな」
「はあ?」
「ボインの子、あの時の飲み会でつっつーのこと気に入ったっつってた」
「いやいやオレ記憶ないんで、誰がいたかもよくわかんな」
「だってさぁ、なんだっけ、ヨーコちゃんだっけ? 話聞いてる限り見込みなさそうじゃん」
「……先輩」
「あっはは。新しい出会いも大切だと思うよ」

 トラ先輩のいうことに間違いはない。確かに見込みないし、未来は決して暗くはないけどだからといって明るいわけでもない。ああそうさ、平行線しかないさ。交わることも近づくこともない平行線だ。なんてつまらない関係!ちぇっ、んなの自分でもわかってるよ。
 アイスコーヒーを口に含む。隣の席で携帯をいじる女性客の、カットソーの中のキャミソールについたレースの下から見える白い素肌の谷間に目がいくのはごく自然な行動だ。悪いのはオレじゃなくて、そういう服装をチョイスした彼女なんだ、と責任を転嫁して視線をトラ先輩へ戻す。
 すると、口をぱくぱくさせながら「好みか?」と聞いてくる。「かもしんねっすねー」適当に答えたら「よしきた」と言わんばかりに彼女の肩をたたいた。

「おねーさん今ヒマ?」
「え、ちょ、せんぱ?」

 オレが目を丸くしてる間に先輩は彼女と2、3言葉を交わしている。こそこそと耳打ちをするものだから、こっちには会話がまったく聞こえてこない。ていうか店内の客が騒がしすぎるんだよ。ちくしょう頭いてぇし。予感的中嬉しくない。

「うはは、つっつー面白い顔してる」

 先輩が笑う。隣の席の女性と目が合う。上がった眉、だけど目尻は垂れていて、なんとなく、トラ先輩のいとこと紹介されたら納得するな、とぼんやり考えた。
 ぽったりした唇とか、ちょうツボ。
 トラ先輩が女だったら惚れるのに、と冗談でいったら、姉ちゃんだけはやらねーぞ、と笑われたこともあったなぁ。そういやあんとき、先輩に似てるいとこを紹介してくれるとかしてくれないとか……ダメだ、酒の席の記憶は遥か彼方へと走り去っている。背中がまったく見えない。オレ、マラソンとか苦手だしなぁ。

「この子、えなっちゃんだから」
「江夏ですー」
「は?」

 今のやりとりでそこまで発展してたの? なんなの? 先輩どんだけ聞き出し上手なの? てか、えなつさんもどんだけノリいいの?

「いやいや、さっき話してたボインちゃん」

 親指を立てて2人が笑う。なんかほんと、似てるって。血縁者だろあんたら。
 ゆるゆると、笑うえなつさんの赤茶色の髪が揺れて、なんかもう、どうでもよくなった。
 「よろしく、じゅんぺーくん」と笑うその顔がかわいかったから、それだけでよしとしてもいい気がした。だって別に、オレと葉はつきあってもいない、なんでもない関係だしさぁ、どストライクこられたらもう、ねぇ?
 あーちくしょう、明日のオレに期待する。そうする。だからここは、とりあえずえなつさんと握手だ、と頭の痛みに語りかけた。
 これで頭痛も治ればいいのに。




「ごめんね、アタシ、行くから」

 泣き出しそうな男の目を見つめながら、初美は静かにそう言った。男は首を左右に振り、行かないで、と目で訴える。うるんだ瞳に初美の胸は痛んだが、だからといって自分の夢を捨ててこの男と一緒にいるわけにもいかないし、この町にとどまるわけにもいかない。
 前へ進むのだ。そのための取捨選択なのだ。
 なにかを始めるためには、なにかを捨てなくてはいけない。あれもこれもそれもどれも手にしたままなんて、そんな欲張りになれないし、初美の手は大きくない。
 胸が痛むのも、そんなものは今この瞬間と1週間ぐらいで、時間がたてば彼の揺れた目の色だって忘れてしまう。

「はっちゃん」
「ごめんね」

 謝るのは誰のため?

「それでも私は行かなくちゃ」
「でも」
「ゆうくんには、アタシよりもっともっといい人がいるよ」
「や」
「アタシにだって、もっともっといい人がいる」

 世界にいる男は、彼だけではない。
 初美はかばんから財布を出すと、その中から千円札を抜いた。

「だけど、付き合ってたことを忘れるつもりはないし、なかったことになんかしない。ゆうくんと出会って、付き合って、アタシの中のなにかは変わったと思うし、ゆうくんの中のなにかも変わったと思う。今までありがとう。ゆうくんのこれからが、もっともっと素敵なものであるように願っています」

 テーブルの上のカップに額がぶつからないギリギリのところまで頭を下げ、顔を上げた初美はにこりと微笑む。「ケーキ代」といいながらテーブルの真ん中に千円札を置いて立ち上がった。

「はっちゃん」
「ばいばい」

 この町には帰ってこない。
 彼にはもう二度と会わない。
 もう一度頭を下げて、初美は体を回転させた。深く息を吐いて、前を向く。店のドアは太陽光を浴びて白く輝いていた。




 お願いだから、とのどを震わした声はあまりに微弱な空気振動で、きちんと相手に伝わったか不安になった。しかし僕は顔を上げることができない。弱虫泣き虫根性なしと罵られたってかまわなかった。ただ、彼女にすがって泣くことしかできない。


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がしたからさっさと上げる。うーん、なにがなにやら……
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