動けなかった。言葉が返せなかった。私はただじっと、汗をかいているカフェモカを見つめるしかなかった。
その間、テーブルの上を沈黙が撫でる。
ひざの上の手は拳が握られ、開くことができない。うつむいた私の視界の端で、落ち着かない様子の彼女が自身のアイスティーにささったストローをいじる。テーブルの下では彼女の足がぱたぱたと揺れる。
それでも私は顔を上げることができなかった。
なにか、発言をしなくては。そう思うのに考えがまとまらない。頭の中では彼女の言葉が何度も何度もループする。
考えろ、考えろ、今まで過ごしてきた人生のすべてをひっくり返して考えろ。
「わたし、は」
彼女の手が止まる。目だけを動かして彼女を見る。目が合った。すぐにそらした。「うん」まだなにもいってないのに相づちが入る。
真剣なんだ、私も彼女も。
「あなたが悲しむ姿を見たくない、だけ、です」
アイスティーを飲んだ彼女が、すごく重い「うん」をいった。
その間、テーブルの上を沈黙が撫でる。
ひざの上の手は拳が握られ、開くことができない。うつむいた私の視界の端で、落ち着かない様子の彼女が自身のアイスティーにささったストローをいじる。テーブルの下では彼女の足がぱたぱたと揺れる。
それでも私は顔を上げることができなかった。
なにか、発言をしなくては。そう思うのに考えがまとまらない。頭の中では彼女の言葉が何度も何度もループする。
考えろ、考えろ、今まで過ごしてきた人生のすべてをひっくり返して考えろ。
「わたし、は」
彼女の手が止まる。目だけを動かして彼女を見る。目が合った。すぐにそらした。「うん」まだなにもいってないのに相づちが入る。
真剣なんだ、私も彼女も。
「あなたが悲しむ姿を見たくない、だけ、です」
アイスティーを飲んだ彼女が、すごく重い「うん」をいった。
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(
2008/09/23)
読書中の彼
しょーくん?
部屋のドアを開け、顔を出す。祥はベッドの上で横になっていた。本を少しだけ持ち上げ、隙間から佑真を見る。ゆーまだ。入っていーい? いんじゃん?
滑り込むように佑真は部屋に入り、祥の隣にダイブする。
「なに読んでんの?」
「なんだっけ、魔王?」
「文庫になったんだ、それ」
「見つけたから買ったー」
枕に顔を埋め、次に読ましてー。祥は佑真の背中に頭を乗せ、んー、考えとくー、と返事をする。いーじゃん、読ませろよー。ばたばたと足をばたつかせた。祥は気にしない。
●●○
や、ま、単に、書きたくなった、だけです……。
部屋のドアを開け、顔を出す。祥はベッドの上で横になっていた。本を少しだけ持ち上げ、隙間から佑真を見る。ゆーまだ。入っていーい? いんじゃん?
滑り込むように佑真は部屋に入り、祥の隣にダイブする。
「なに読んでんの?」
「なんだっけ、魔王?」
「文庫になったんだ、それ」
「見つけたから買ったー」
枕に顔を埋め、次に読ましてー。祥は佑真の背中に頭を乗せ、んー、考えとくー、と返事をする。いーじゃん、読ませろよー。ばたばたと足をばたつかせた。祥は気にしない。
●●○
や、ま、単に、書きたくなった、だけです……。
ブン、という音がしてパソコンの画面が真っ黒になった。オレの頭は真っ白になる。けど、それは一瞬のことで、すぐに上書き保存していたことを思い出す。危ない。あのときコントロールSを押してなかったら今ごろ取り乱して窓から飛び降りてたかもしれない。オレの部屋一階だけどもしかしたら万が一で死ぬところだった。
イスが自動で回る。訂正、他動で回る。ミニスカートにニーハイソックス、揺れる髪は地毛の茶髪、生まれつきのつり目はオレを真っ直ぐに見ている。いや、睨んでる、の間違いかな。
「ねぇ」
「ああ、いたの、気づかなかった」
不機嫌な声に無感情で返す。目が細められる。未来の右手が上がる。オレはそれを見上げて、振り下ろされるのを待った。
まだかな、どこかな、グーかなパーかな。しかし期待していたことはなにも起きず、未来の右手とオレの体は触れ合わなかった。未来が鼻を鳴らして踵を返す。
ドアノブに手をかけたところで口を開く。
「みっちゃん、こっち、おいでよ」
両手を広げ、できる限りの笑顔を作った。首だけ回した未来がオレを見る。ドアノブから手を離す。さして広くもない部屋を大股で横断する。
小柄な体がすっぽりと腕の中におさまる。
「みっちゃんは、いくつになっても、甘えたさんだ」
顔を近づけ、耳元で囁いた。するとみぞおちに鈍い衝撃。思わずもらしそうになった声を反射で飲み込んだ。
うつむいている未来の顔は見えないけど、耳まで真っ赤にしてんだろうなぁ。以心伝心? でも、毎回毎回パソコンの電源ぶち切られたらいつか壊れるよなぁ。毎回毎回未来に気づかないフリをするオレもオレなんだけど。
「ゆーま」
「なに? オレだけの、お姫さま」
「台風」
「来てるね、危ないね、泊まってく?」
未来の左手をつかむ。手の甲にキス。「みっちゃん?」メガネを直す。鼻を未来のこめかみに押し当てる。台風のせいで世界はオレと未来だけになりました、めでたしめでたし。なんつって。
もう一度腹を殴られた。さっきよりも重いパンチ。そしてオレの薄い胸板に未来が頭をすり寄せる。薄いつっても未来ほどではないかなぁ。また殴られた。以心伝心って怖いね。ドス。愛かな。ドスドス。未来からの愛ならどんな形であろうと受け入れるけどね。ドス。
●●○
なんかもう投げた\(^^)/ミックミクの曲があまりにもかわいくてやった。後悔なんてない。今猛烈に牛乳飲みたい。にことゆつべうろついてたらこんな時間になってた/(^^)\後悔なんてない。
結論だけを述べるなら、日曜の戸田北オンリー、一人で行くしかない。私は、半分本気だ。ここは、創作サイトだ。
イスが自動で回る。訂正、他動で回る。ミニスカートにニーハイソックス、揺れる髪は地毛の茶髪、生まれつきのつり目はオレを真っ直ぐに見ている。いや、睨んでる、の間違いかな。
「ねぇ」
「ああ、いたの、気づかなかった」
不機嫌な声に無感情で返す。目が細められる。未来の右手が上がる。オレはそれを見上げて、振り下ろされるのを待った。
まだかな、どこかな、グーかなパーかな。しかし期待していたことはなにも起きず、未来の右手とオレの体は触れ合わなかった。未来が鼻を鳴らして踵を返す。
ドアノブに手をかけたところで口を開く。
「みっちゃん、こっち、おいでよ」
両手を広げ、できる限りの笑顔を作った。首だけ回した未来がオレを見る。ドアノブから手を離す。さして広くもない部屋を大股で横断する。
小柄な体がすっぽりと腕の中におさまる。
「みっちゃんは、いくつになっても、甘えたさんだ」
顔を近づけ、耳元で囁いた。するとみぞおちに鈍い衝撃。思わずもらしそうになった声を反射で飲み込んだ。
うつむいている未来の顔は見えないけど、耳まで真っ赤にしてんだろうなぁ。以心伝心? でも、毎回毎回パソコンの電源ぶち切られたらいつか壊れるよなぁ。毎回毎回未来に気づかないフリをするオレもオレなんだけど。
「ゆーま」
「なに? オレだけの、お姫さま」
「台風」
「来てるね、危ないね、泊まってく?」
未来の左手をつかむ。手の甲にキス。「みっちゃん?」メガネを直す。鼻を未来のこめかみに押し当てる。台風のせいで世界はオレと未来だけになりました、めでたしめでたし。なんつって。
もう一度腹を殴られた。さっきよりも重いパンチ。そしてオレの薄い胸板に未来が頭をすり寄せる。薄いつっても未来ほどではないかなぁ。また殴られた。以心伝心って怖いね。ドス。愛かな。ドスドス。未来からの愛ならどんな形であろうと受け入れるけどね。ドス。
●●○
なんかもう投げた\(^^)/ミックミクの曲があまりにもかわいくてやった。後悔なんてない。今猛烈に牛乳飲みたい。にことゆつべうろついてたらこんな時間になってた/(^^)\後悔なんてない。
結論だけを述べるなら、日曜の戸田北オンリー、一人で行くしかない。私は、半分本気だ。ここは、創作サイトだ。
「この先に、あるんだ……」
暗い鍾乳洞の中、唯一の光源は少女が手にしているランプに灯された小さな明かりのみ。わずかな風にも揺れる小さな火を絶やさぬよう、注意しながら、しかし胸の内の興奮が抑えられないのか、歩幅は広い。
「この先に伝説の花が!」
ランプの明かりでは足元を照らすだけでやっとだったのに、急に視界がクリアになった。円形の広場の中央が、どこからかの光でもって明るくなっている。
光と闇の境界線に立ち、少女は広場の中をうかがった。天井の低かったそれまでの道と異なり、広場は吹き抜けだった。何日ぶりかの空を見上げ、その明るさに目がくらんだ。昼間のように思えたが、一瞬だけ朱色が見えた気がした。
広場に出る道は少女が来た道しかないようで、ここが突き当たりだということを示していた。中央には円形に土の盛られた段があった。恐る恐る近寄る。
しかし少女は途中で足を止めた。ここは突き当たりだ。そしてここに入る、もしくはここから出る道は一本しかない。その道だって長かったものの、曲がり道はなかった。ただひたすら道なりだった。
この鍾乳洞に入る前、近くの村の老婆が話をしていたことを思い出す。
「まぁたあの鍾乳洞に入る人がいるよ。昨日も、一昨日も入っていった」
「勇者だ、魔女だ、騎士だなんだと飽きないねぇ。今まであすこから出てきた人なんていないのに」
「みぃんな伝説の花に喰われたんだよ」
「三千年に一度しか咲かない伝説の花、だなんていって、中には人喰い花しかいないんだよ」
「なのにどうして人は入りたがる」
「自分こそが一番だと、権力を手に入れたがる」
「愚かな」
「浅はかな」
「花に魔力なんてありもしないのに」
少女より先に入っていった人間はどこにいった?
いくら吹き抜けで空が見えていようと、浮遊の術は相当な能力を必要とする。それこそ王属術士や、古代魔術士でないと無理だ。
本当に花が人を喰らったのか。だとしても、今、少女の目の前に広がる開けた空間には花なんて咲いていないし、葉っぱ一枚落ちていない。
一段上がった広場の中央が怪しいことは一目瞭然だ。あそこを覗きこんだとたん花が出てきて人を食べるのか、はたまた段を上がった瞬間穴が開いてそこから地下へ落下し花に食べられるのか。
つばを飲む。ランプを置き、腰から下げていた、少女の頭より幾分か大きい金色のリングを両手に持つ。
二つのリングをぶつけ、シャンシャンと鳴らし、自身のブレスレットに埋め込まれた宝玉が光るのを確認してから「炎よ!」右手に持っていたリングを中央に向ける。火柱が立つ。「水よ!」左手に持っていたリングを中央に向ける。滝のように水が降る。「風よ!」二つのリングをもう一度ぶつけ合わせ、それから右手に持っていたリングを中央に向ける。突風が吹き、土埃が舞う。
恐る恐る中央を覗きこもうと首を伸ばしたときだった。
「うるっさい!」
怒声が耳に響く。どこから聞こえたのだとまわりを見るヒマを与えない、容赦ないげんこつが少女の後頭部を直撃した。
少女が目尻をつりあげて振り返るより先に襟首を持ち上げられる。
「アンタ、あたしに何の用?」
どすの聞いた声が少女の腹に響く。目があったのは切れ長の瞳。長いまつげに縁取られた真っ黒の瞳は、素直な怒気に染まり、真っ直ぐに少女を見ていた。唇は艶やかで、鼻はツンと上を向いている。褐色の肌を隠すよう、黒い髪が女の体に添って垂れている。
「ええと、あの、伝説の花を……」
「そんなのわかってるわよ。だから、要件は?」
少女はきょとんとした。
お姉さんは花のなんだというのだろうか。門番とか? でも花なんてこの広場に咲いてないし……。
「アンタもしかして」
女はそこで言葉を切る。目を見開き、持ち上げた少女を床におろした。そして黒い長髪をかきあげ、鼻で笑う。
「あたしの美しさを見に来たのね?」
少女は顔の前で手を振った。
●●○
無駄に長くなった上に、発車時とはまったく違う駅に到着した。なんだこれ。
暗い鍾乳洞の中、唯一の光源は少女が手にしているランプに灯された小さな明かりのみ。わずかな風にも揺れる小さな火を絶やさぬよう、注意しながら、しかし胸の内の興奮が抑えられないのか、歩幅は広い。
「この先に伝説の花が!」
ランプの明かりでは足元を照らすだけでやっとだったのに、急に視界がクリアになった。円形の広場の中央が、どこからかの光でもって明るくなっている。
光と闇の境界線に立ち、少女は広場の中をうかがった。天井の低かったそれまでの道と異なり、広場は吹き抜けだった。何日ぶりかの空を見上げ、その明るさに目がくらんだ。昼間のように思えたが、一瞬だけ朱色が見えた気がした。
広場に出る道は少女が来た道しかないようで、ここが突き当たりだということを示していた。中央には円形に土の盛られた段があった。恐る恐る近寄る。
しかし少女は途中で足を止めた。ここは突き当たりだ。そしてここに入る、もしくはここから出る道は一本しかない。その道だって長かったものの、曲がり道はなかった。ただひたすら道なりだった。
この鍾乳洞に入る前、近くの村の老婆が話をしていたことを思い出す。
「まぁたあの鍾乳洞に入る人がいるよ。昨日も、一昨日も入っていった」
「勇者だ、魔女だ、騎士だなんだと飽きないねぇ。今まであすこから出てきた人なんていないのに」
「みぃんな伝説の花に喰われたんだよ」
「三千年に一度しか咲かない伝説の花、だなんていって、中には人喰い花しかいないんだよ」
「なのにどうして人は入りたがる」
「自分こそが一番だと、権力を手に入れたがる」
「愚かな」
「浅はかな」
「花に魔力なんてありもしないのに」
少女より先に入っていった人間はどこにいった?
いくら吹き抜けで空が見えていようと、浮遊の術は相当な能力を必要とする。それこそ王属術士や、古代魔術士でないと無理だ。
本当に花が人を喰らったのか。だとしても、今、少女の目の前に広がる開けた空間には花なんて咲いていないし、葉っぱ一枚落ちていない。
一段上がった広場の中央が怪しいことは一目瞭然だ。あそこを覗きこんだとたん花が出てきて人を食べるのか、はたまた段を上がった瞬間穴が開いてそこから地下へ落下し花に食べられるのか。
つばを飲む。ランプを置き、腰から下げていた、少女の頭より幾分か大きい金色のリングを両手に持つ。
二つのリングをぶつけ、シャンシャンと鳴らし、自身のブレスレットに埋め込まれた宝玉が光るのを確認してから「炎よ!」右手に持っていたリングを中央に向ける。火柱が立つ。「水よ!」左手に持っていたリングを中央に向ける。滝のように水が降る。「風よ!」二つのリングをもう一度ぶつけ合わせ、それから右手に持っていたリングを中央に向ける。突風が吹き、土埃が舞う。
恐る恐る中央を覗きこもうと首を伸ばしたときだった。
「うるっさい!」
怒声が耳に響く。どこから聞こえたのだとまわりを見るヒマを与えない、容赦ないげんこつが少女の後頭部を直撃した。
少女が目尻をつりあげて振り返るより先に襟首を持ち上げられる。
「アンタ、あたしに何の用?」
どすの聞いた声が少女の腹に響く。目があったのは切れ長の瞳。長いまつげに縁取られた真っ黒の瞳は、素直な怒気に染まり、真っ直ぐに少女を見ていた。唇は艶やかで、鼻はツンと上を向いている。褐色の肌を隠すよう、黒い髪が女の体に添って垂れている。
「ええと、あの、伝説の花を……」
「そんなのわかってるわよ。だから、要件は?」
少女はきょとんとした。
お姉さんは花のなんだというのだろうか。門番とか? でも花なんてこの広場に咲いてないし……。
「アンタもしかして」
女はそこで言葉を切る。目を見開き、持ち上げた少女を床におろした。そして黒い長髪をかきあげ、鼻で笑う。
「あたしの美しさを見に来たのね?」
少女は顔の前で手を振った。
●●○
無駄に長くなった上に、発車時とはまったく違う駅に到着した。なんだこれ。
お別れなのよ、と彼女は言った。僕は聞こえなかったフリをして、え? と聞き返した。彼女はうつむいたまま、もう二度と会えないの、と先ほどよりもキツい声音で話す。
前髪が垂れているせいで彼女の表情が見えない。こげ茶色の髪の向こうで、彼女は怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか、笑っているのだろうか。僕にはまったく想像がつかない。
どうしていいのかわからない僕はコップを手にして、空っぽのそれに気がついた。そうだ、だいぶ前の沈黙のとき、居心地が悪くなって水を飲み干した上に氷を噛み砕いたのだった。空のコップを手の上で遊ばせ、彼女からなんの反応も得られないことを確認してからテーブルに戻す。
しかしまたどうして急にそんな突拍子もないことを。言いかけて息を飲む。顔をわずかに上げた彼女が、前髪の隙間から僕を見てきたからだ。その瞳に映るのは憤りと悲しみ。
どうして? 急に? 突拍子もない? 早口にまくしたてられる。僕はイスの上で身じろいだ。あたしはずっと、悩んでたのよ?
彼女から目をそらす。壁の木目を見る。この家の壁は、ずっと木目調の壁だっただろうか。違和感や新鮮味を感じていると、テーブルがバン、とたたかれた。
あなたはずっと夢を追って、アルバイトで、いつまで続けるの? いつまで夢を追うの? いつになったら目が覚めるの?
彼女の目から涙がこぼれた。両手で顔を覆う。くぐもった声で、出て行って、と言われた。僕は返事ができない。こげ茶色の髪を揺らして彼女が首を左右に振る。あなたが出て行かないなら、あたしが出て行く。
そう言われても、僕はなんて返せばいいのかが検討つかない。所在なく指を遊ばせる。
鼻をすすり、真っ直ぐに僕を見る彼女の目は本気だった。そしてその目には、今まであった僕への愛は微塵も見つけられなかった。
無意識にコップを手にする。空のコップは軽い。これを床に落としたところでフローリングの床にコップが飛び散るだけなので、彼女の意識は変わらない。そう思って床を見たら、毛足の長いカーペットが敷かれていた。
僕のいるこの家は、本当に僕と彼女の家なのだろうか。あまりにも僕の知らないものが多すぎる。このコップだって、いつからあるのか僕は知らない。
●●○
だからなんだといわれても困るんだけど。なんとなく。
前髪が垂れているせいで彼女の表情が見えない。こげ茶色の髪の向こうで、彼女は怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか、笑っているのだろうか。僕にはまったく想像がつかない。
どうしていいのかわからない僕はコップを手にして、空っぽのそれに気がついた。そうだ、だいぶ前の沈黙のとき、居心地が悪くなって水を飲み干した上に氷を噛み砕いたのだった。空のコップを手の上で遊ばせ、彼女からなんの反応も得られないことを確認してからテーブルに戻す。
しかしまたどうして急にそんな突拍子もないことを。言いかけて息を飲む。顔をわずかに上げた彼女が、前髪の隙間から僕を見てきたからだ。その瞳に映るのは憤りと悲しみ。
どうして? 急に? 突拍子もない? 早口にまくしたてられる。僕はイスの上で身じろいだ。あたしはずっと、悩んでたのよ?
彼女から目をそらす。壁の木目を見る。この家の壁は、ずっと木目調の壁だっただろうか。違和感や新鮮味を感じていると、テーブルがバン、とたたかれた。
あなたはずっと夢を追って、アルバイトで、いつまで続けるの? いつまで夢を追うの? いつになったら目が覚めるの?
彼女の目から涙がこぼれた。両手で顔を覆う。くぐもった声で、出て行って、と言われた。僕は返事ができない。こげ茶色の髪を揺らして彼女が首を左右に振る。あなたが出て行かないなら、あたしが出て行く。
そう言われても、僕はなんて返せばいいのかが検討つかない。所在なく指を遊ばせる。
鼻をすすり、真っ直ぐに僕を見る彼女の目は本気だった。そしてその目には、今まであった僕への愛は微塵も見つけられなかった。
無意識にコップを手にする。空のコップは軽い。これを床に落としたところでフローリングの床にコップが飛び散るだけなので、彼女の意識は変わらない。そう思って床を見たら、毛足の長いカーペットが敷かれていた。
僕のいるこの家は、本当に僕と彼女の家なのだろうか。あまりにも僕の知らないものが多すぎる。このコップだって、いつからあるのか僕は知らない。
●●○
だからなんだといわれても困るんだけど。なんとなく。